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滞在二日目は会場が休廊日だったので、京都内を観光することに。

丁度この日はちぇいんの催すオフ会の日だったらしく、そのオフ会にくっ付いて行動することで、京都観光をすることに。京都観光は、大学二年の古美術研究旅行で、だいたいメジャーな所(寺とか)は回ったので、それ以外の場所に連れてってもらうことにしました。

メンバーは、自分とちぇいんと、オチさん、それにちぇいんの生放送を普段見ているユーザーさん二人という構成。駅で待ち合わせした後は、京都のディープな隠れ家的な場所へと案内されました。

そのディープな隠れ家というのは、西陣にある遊・空間「u」という場所。
300坪の敷地と、築100年の洋館を道楽的にフリースペースとして開放してある場所なんだけど、明らかに私有地だし、見た目も植物が生い茂った森のようであり、とても人が入って良いような雰囲気ではない。でも入って良いみたい。

古めかしい洋館の中に足を入れると、中もアンティーク調で統一されていて雰囲気抜群。昔の富豪宅に遊びに来た感じ。中はとっても静かで、内装が古めかしいせいもあって、外界から遮断され、時間の流れが止まっているように感じられる。自分がどこに立っているのかわからなくなる。

そこに現れたのがこの家の主人で、市原さんという人。館にある色々なものをあれやこれや説明してくれるんだけど、このじいさんがとんでもない偏屈じじいで、ひねくれてて意地悪なんだけど、自分は結構、こういう偏屈じいさん嫌いじゃない。自分の生き方に哲学を持っているというか、物事に対する斜に構えた視点は、この人なりのバランス感覚。そして意地悪が成功してニヤッと笑った時の、子どものような笑顔と瞳が忘れられないんだよね。童心を忘れないというか、ある種ピュアなんだよね。こういう変態系の大人の特徴は、他の知り合いにもどことなく通ずる部分がある。

そんな変な場所で初めて会った見知らぬ人と謎のオフ会となり、何を話していいか互いにわからずみんなボーっとしていたのだけれど、暫くすると1人の細身の女性がお客としてやって来た。慣れた様子でサーっと入って奥の部屋に行った後、自分たちの部屋に戻ってきたら、その人を交えて雑談が始まりました。全然知らない人同士で同じ時間と空間を共有して話し合うというすごい妙な感じ。

最初はこの館について色々と雑談していたのだけれど、話していく内にアートの話がわりと通じるとわかり、さらに話すとこの人は京都でヌードモデルをやっているモデルさんだということがわかってきた。自分もだんだんこの人に興味が沸いてきて色々とモデルの仕事について伺ってみたところ、琵琶湖で裸になって撮影したとか、どこかの森の中で撮影してたら外人に見られてビックリしたとか、色んな面白い話が聞けた。さらに聞いてくと、SM嬢の撮影の手伝いをしたことがあるとか、むしろ自分も縛られたことがあるとか、縛られると陶酔するタイプだとか色々聞くことができて、ああ、やっぱりこんな所に集まるからにはこの人も立派な変態さんなんだなあと、なんだか腑に落ちました。

話していく内に、撮影したヌード写真も初対面の僕たちに見せてくれて、これがまた全然目の前の本人とは違った雰囲気でキレイで面白かった。実物はちょっと痩せすぎなんじゃないの?ってぐらいガリってるんだけど、写真で見ると丁度良いんだよな。写真ってそういうものなのかもしれない。

今構想している、泥プロジェクトでヌードモデルを探すのに苦労してるけど、やっぱり居るとこには居るもんなんだなと再確認。やっぱり変態系なんだなあ。



遊・空間を後にした後は、みんなでカフェで食事し、解散。その後、家路に着く帰り道の途中で、ちぇいんの中学の同級生が開いている骨董品屋さんに立ち寄る。

骨董品屋に入ったのは初めてなんだけど、これが結構面白かった。入り口には砂利が敷き詰められ、庭のよう。品物は過不足のない絶妙なバランスで配置されている。なんというか、凄いおしゃれで粋な空間というか、全体がインスタレーションみたい。

30代で骨董屋をやっている若い主人さんは骨董業界のことを素人の僕にも詳しく教えてくれて、これがまた興味深かった。物書きを目指していた主人が、自分の才能に限界を感じ、その道を諦めて始めたのがこの骨董品屋らしい。

骨董屋の仕事とは、品物をあるべき見せ方で見せ、その美しさを引き出した状態でお客さんに提示すること。それは例えば、どんなに希少価値のある物でも、地面にボテッと置いたままでは誰も見ようとはしない。それを本来あるべき姿で客に提示することで、物の輝き方が変わってくる。それをプロデュースするのが骨董品屋の仕事なのだそうだ。

拘るのは展示だけじゃなく、骨董品の修復や、よりよく見せるため素材と素材を組み合わせることもあるらしい。

実際、小さな仏像と古い木材が構成された品物があって、これは何ですかと聞くとご主人が組み合わせた代物らしい。これがかなりカッコよく出来ていて、これ最初からこうだったんじゃないの?と思うくらいスッと入ってくる美しさ。

ここまで話を聞いていると、骨董品屋の仕事は殆どアーティストに近いなと僕は感じていた。物の展示の仕方はインスタレーションと呼べるぐらい感覚が通っているし、古物と古物を組み合わせて新しい価値観を生み出しているのも、ミクストメディアとか、アッサンブラージュにかなり近い。

そういうとご主人は決まって「いやいや、私はアーティストではないです。あくまで骨董屋です。」と言う。「どんなに美しく展示をしたとしても、それでお客さんが手に取ってくれなければ意味がない。実際、以前は今よりアーティストチックに考えている部分があって、良く言えば緊張感のある展示をしていましたが、それで品物を手に取ってくれる人は少なかった。自分はアーティストではないんだと気付いてから、最近はあえて隙を作るような展示にしています。それくらい気が抜けている方が丁度良いんです。だから、自分はアーティストではないということを肝に銘じておかなくてはいけないんです。売れなきゃ骨董屋じゃないですからね。」と言っていた。どこか他人事ではないような、なかなか考えさせられる話だった。



家に帰ると、この日もニコニコ生放送に参加させてもらった。
ちぇいんがトーク、自分がお絵かきを担当していたのだけれど、お酒を飲んだちぇいんが早々に寝落ちすると言う展開だった。その前日もそうだったんだけどね。

人の家でやるとどうもツールが使い辛くて、もどかしかったので、家でやってみたいなー!ともぞもぞしていたのもこの時。



http://www.peace-summer.com/entry/creatorlist_13.html

9月1日~9月4日まで、PEACE SUMMER 2009というイベントの展示のために京都・大阪に行ってきました。

このイベントに参加したのは、ちぇいん(ごずてん)という友人に誘われたからです。

[有機物を作ろう]
http://gozten.exblog.jp/

初日は、伊丹空港から直接LOOP Aという展示会場へ参りました。
大阪についてまず戸惑ったのは、東京ではよく使ってたICカードのSuicaが使えなかったり、エスカレーターの立ち位置が逆だったりとか、色々とローカルルールの違いが目立ちました。こういうのはめんどくさいから、どっちかにまとめれば良いのにね。

心斎橋駅を降りて、暫く歩いたあと会場に着くと、ちぇいんや、他の参加者が会場で待機していました。

ちぇいんとは自分が中学ころからの知り合いで、当時ひきこもってた自分に大学進学のきっかけを与えてくれた恩人さんです。換算すると長い付き合いだけど、それもネットのみの関係で、実際に会うのはこの時が初めて。なんだか不思議な気分。おしゃれな坊主さんでした。

会場の様子的には、全体がほぼイラスト系で、しかもサイズがA4~A2ぐらい、CG作品が多めで、インクジェットプリントが大半なのに対し、自分はF50ぐらいの油彩だったので、なんか浮いてる感じではありました。というか、サイズがデカ過ぎて、作品の置き場所に困って外側に追いやられている感じでした。まあしょうがないか。

出品者の中ではオチマリエさんという方が中々良い絵を描いてるなあと思いました。
本人は華奢でキュートな感じです。絵に出てくる女の子と似てるかんじー。

[OrijiirO]
http://orijiiro.fc2web.com/

あとは、同じ県芸生のたつき川さんがやっぱり実力あります。

[さんぴん☆綺想曲]
http://www17.plala.or.jp/sanpinn-ituki/

暫く会場でウダウダした後、ちぇいんとオチさんとで居酒屋へ飲みに。
絵の話を中心に、楽しい会話となりました。



その後、京都にあるちぇいん宅に帰り、そこで「ニコニコ生放送」なるものの存在を教えてもらう。

ニコニコ生放送というのは、文字通り、ユーザーが配信する動画や音声の生放送。ニコニコ動画自体は、youtubeみたいな感じで時々見るけど、他のサービスはあんまり興味なかったんだよね。

それで、ちぇいんに薦められて初めてニコ生を見てみると、ほんとに素人の人が動画とかおしゃべりとかを生放送してんのね。なんとも言えない生々しさというか、危うさというか。その中でも、絵を描ける人なんかはパソコンの画面をキャプチャしながらお絵かき・お喋り配信してるみたい。女子の声なんかだったりすると、聴いてるだけで結構和む。なんかネットって凄いことになってるんだなあ(いまさら)

ニコ生では、ちぇいんは自分のお絵かきや、おしゃべりの様子を毎朝生配信しているらしい。それを見ているユーザーとの間にコミュニティも出来てたり。んでその日は自分もちぇいんの生放送に参加して、お絵描きしました。Painterの画面をキャプチャさせながら、お絵かきの生放送。んー、なるほど、これは面白いかもしれん。人前でライブペインティングしたりとか、スケッチブックでお絵かきっこしてる感じと近いかも知れん。初めはキンチョーしたけど、面白いかも知れん。後で自分もやってみたいなと思ったのでした。



昨日から10月5日までの間、沖縄県立芸術大学の図書館2Fで、「P-POINT」というオール版画の展示会をしてます。

出品者は大体が院生以上で教授クラスの展示会なので、質は高いと思います。


僕はおっぱい版画三点出してまーす。

昨日、版画を気に入ってくれた人が現れて、色味を調節したら全部買ってくれるという話になりました。ハッピー。


今日の昼一時からギャラリートークもあるらしいので、
興味のある方はご足労を。



アートとコミュニケーションの関係は切っても切り離せない関係にあると思って、最近そのことをコネコネと考えている。そんな折、


●新時代・あらゆるコンテンツは「ニコ動」でイジられる!(前編)
http://www.cyzo.com/2008/07/post_728.html

という記事を読んで、幾つかひっかかる言葉があった。


特に気になったのは、「人間にとって最大の娯楽とは、他者とコミュニケートすること」と、「コンテンツはコミュニケーションツールでしかない」という、この二つ。

人間の最大の娯楽は他者とのコミュニケーション、というのは、これだけ携帯電話やインターネットが日常に普及した現状を見れば容易にわかる。自分自身、ネットを始めた頃の掲示板等でのやり取りは最高に刺激的なものだったし、作品を通じて人と関わりたい、という自分の制作行為もそうした欲求の一つなんだろう。


二つ目の「コンテンツはコミュニケーションのためのツール」というものには、何かこう…ドキッとさせられるものがある。

この記事では、コンテンツの本質というものは、そのコンテンツが面白いかどうかが重要なのではなく、そのことについて隣人と話し合えるかどうか(話のネタとして使えるかどうか)が重要だと語られている。

この場合の「コンテンツ」というのは、TVにおける番組のことを指しているんだけど、それをアートにおける「作品」に置き換えてみると、なかなか他人事ではない気がする。

似たような話で、富裕層やコレクターの間で、アート作品が何らかの「ステータス」を示すための品物として扱われているという現状がある。例えば「ゴッホの名作を50億で買ったぜ」だとか、「今一番売れっ子の現代美術家の作品を持っている」という自慢話が、パーティーにおける酒の肴として作用することがある。優れたアート作品を所有しているということは、富裕層の中で話のネタになる。

それは、純粋に「作品を鑑賞する」ということとはまたどこか別の所にある価値観だとは僕は思うのだけれども、アート作品にそういった利用価値があるのも事実で、単に個人的な鑑賞で終わってしまう作品よりも、他者とのコミュニケーションの中で「使える」アート作品が社会の上で強いのもまた事実ではないかと思う。先述の「人間の最大の娯楽は他者とのコミュニケーション」という言葉が頭をかすめる。

個人的にあまり良い音楽だとは思えないようなポップチャートを賑わす売れ線の音楽も、他者との共通項を容易に生み出せるという機能は果たしているわけで、その点利用価値があるのだと思う。

だけど、こういった二次的な付加価値ばかりが先行してしまうと、コンテンツと鑑賞者の間にある一次的なやりとりが、なんだかないがしろにされていってしまうようで、ちょっと寂しい気持ちになる。まるで「ネタ」にならないコンテンツには価値がないような言いぶりじゃない?

こういった価値体系の中で、話題性を二の次にしてコンテンツの質ばかりを追求していく人種というのは、現状ではマイノリティになっていく傾向があるように思う。マイノリティになればなるほど、人の話のネタに上がる機会も更に減るわけだから、社会的な利用価値も減少していくのではないだろうか。逆に、話のネタに使えさえすれば、コンテンツの質が低くても社会的な利用価値が上がる場合がある。勿論、コンテンツの質とその利用価値っていうのは分断されたものではなく、相互関係にもあると思うので、内容が伴うものは評価される可能性も高いと思う。その反面、内容が良くても話題性がないために埋もれているコンテンツも沢山ありそう。

ただ、こうやって考えていくと、作品を作る側としては、自分はどういうバランスで作品を作っていくのかを考えていかなければならないように思う。純粋に作品の質を高めていくのか、話題性などの付加価値を視野に入れて物を作っていくのか…。

作品を作るということは、きっとそれによって他者とコミットしたいという願いがあるのだろうけれど、それをどういう幅で、どういう質を維持しつつ、何のために、どういう人に見せて行きたいのか?っていうのは個々人違うんだろうな。



「追悼のざわめき」という映画を見ました。

80年代に制作された伝説のカルトムービーらしいです。その存在をどこから聴きつけたのか、定価10000円ほどのDVDを友人が購入。「見てみてよ」と言うので、僕はそれを借りたまま、ずっと部屋のTVの上に飾っておりました。桐箱って美しい。…じゃなくて、なんだか観るのに体力が要りそうだったんだよね。

そんな感じで数ヶ月経って、ぐつぐつと業を煮やした友人が「じゃあ一緒に観ようよ」と誘いをかけてくれたので、やっとこ重い腰を上げて観ることにしました。観たのは人気もいなくなった夜中の学校。虫に刺されつつ、ムヒを身体に塗りたくりつつ、鑑賞しました。蛙や虫の鳴き声のみ響き渡る夜中の学校は、静かでいいね。


冒頭は、不快なシーンばかりが続きます。
いや、正確に言うと最初から最後まで不快なシーンづくしなのかもしれないけれど、最初の方はとにかく映像を飲み込めなかった。

主人公が女性を殺して、その性器を取り出してマネキン人形の中に埋め込んだり、傷痍軍人に徹底的な暴力を与えたりと、意味がわからない。さすがカルトムービーっぽいなあと思いつつ眺めていたんだけど、物語が進むにつれ主人公達が生活している日常っていうのが掴めて来て、次第にその行動も飲み込めるようになっていったんですね。

この物語の主人公達は、いずれも愛が欠乏していると思う。


生身の女を愛せない男

木人形で性欲を満たす浮浪者

小人症で周囲の愛を得られない女

自らの性欲のために妹を亡くした少年


そう考えていくと、主人公達の行動にもどこか納得がいくというか、一つ一つの奇行が愛を求めるための必死な"もがき"に見えてくるのです。それって何かぼくらにも共感できるものがあるような気がしました。

それでも、主人公や、それを取り巻く日常は狂ったものなので、一つ一つのシーンは強烈に頭に残ります。


殺害現場の横を平然と通り過ぎていく電車

主人公と人形の恍惚としたワルツ

小人症の女性を容赦なく嘲笑う乗客たち

次々と閉まっていくシャッター

血の海の中の少女

死体と戯れる少年

人形の破壊

業火に燃える屋上

散り散りになる群集

草むらと風車


思い返すだけでも沢山あります。
確かにグロテスクなシーンも多いけれど、そこに一抹の美しさも隠れているような気がする。それはやはりそこに描かれているものがどこまでも人間の姿だからかなあ。心の動きというか。

しかし、映像自体は後半に進むにつれ確実にカタルシスの要素が強くなり、どこか解放されていくような感覚がありました。単純に映像的に美しいシーンも多い。


この映画、役者さんも良い味出しています。
主役の佐野和宏さんも渋くて良いけれど、何と言っても夏子役の仲井まみ子さんがスゴイ。よくこんな映画出たなと言わざるを得ないけれど、自然な演技と、人間的な魅力でぐいぐいと映像を引っ張っているような気がします。特に後半は独壇場。気が触れて、街や学校を疾走するシーンのリアリティは物凄い!(実際、テロ気味に行われた撮影らしくて、そこから滲み出る迫力なのかもしれないけれど)

兄と妹役の隈井士門さんと村田友紀子さんも美しい顔立ちをしていますね。村田さんの恍惚とした表情は凄い…。


友人と二人で見終わった頃には、お互いなかなか感慨深いものを感じていたのだけれども、さてこの気持ちを伝えようとしても、他にこういう映画を理解できる人が身近にいるか?と考えると、ウーンと、やっぱりなかなか難しいなと思いました。過激なシーンは多いと思うし、大抵の人はそこに拒否反応を示すと思う。少なくとも、汚い、臭い、暗がりの中の蠢きを、それでもじっと見つめられるような人でないと。

でも、世の中にもっとそういう人が増えても良いように思う今日この頃。。

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