アートとコミュニケーションの関係は切っても切り離せない関係にあると思って、最近そのことをコネコネと考えている。そんな折、
●新時代・あらゆるコンテンツは「ニコ動」でイジられる!(前編)
http://www.cyzo.com/2008/07/post_728.html
という記事を読んで、幾つかひっかかる言葉があった。
特に気になったのは、「人間にとって最大の娯楽とは、他者とコミュニケートすること」と、「コンテンツはコミュニケーションツールでしかない」という、この二つ。
人間の最大の娯楽は他者とのコミュニケーション、というのは、これだけ携帯電話やインターネットが日常に普及した現状を見れば容易にわかる。自分自身、ネットを始めた頃の掲示板等でのやり取りは最高に刺激的なものだったし、作品を通じて人と関わりたい、という自分の制作行為もそうした欲求の一つなんだろう。
二つ目の「コンテンツはコミュニケーションのためのツール」というものには、何かこう…ドキッとさせられるものがある。
この記事では、コンテンツの本質というものは、そのコンテンツが面白いかどうかが重要なのではなく、そのことについて隣人と話し合えるかどうか(話のネタとして使えるかどうか)が重要だと語られている。
この場合の「コンテンツ」というのは、TVにおける番組のことを指しているんだけど、それをアートにおける「作品」に置き換えてみると、なかなか他人事ではない気がする。
似たような話で、富裕層やコレクターの間で、アート作品が何らかの「ステータス」を示すための品物として扱われているという現状がある。例えば「ゴッホの名作を50億で買ったぜ」だとか、「今一番売れっ子の現代美術家の作品を持っている」という自慢話が、パーティーにおける酒の肴として作用することがある。優れたアート作品を所有しているということは、富裕層の中で話のネタになる。
それは、純粋に「作品を鑑賞する」ということとはまたどこか別の所にある価値観だとは僕は思うのだけれども、アート作品にそういった利用価値があるのも事実で、単に個人的な鑑賞で終わってしまう作品よりも、他者とのコミュニケーションの中で「使える」アート作品が社会の上で強いのもまた事実ではないかと思う。先述の「人間の最大の娯楽は他者とのコミュニケーション」という言葉が頭をかすめる。
個人的にあまり良い音楽だとは思えないようなポップチャートを賑わす売れ線の音楽も、他者との共通項を容易に生み出せるという機能は果たしているわけで、その点利用価値があるのだと思う。
だけど、こういった二次的な付加価値ばかりが先行してしまうと、コンテンツと鑑賞者の間にある一次的なやりとりが、なんだかないがしろにされていってしまうようで、ちょっと寂しい気持ちになる。まるで「ネタ」にならないコンテンツには価値がないような言いぶりじゃない?
こういった価値体系の中で、話題性を二の次にしてコンテンツの質ばかりを追求していく人種というのは、現状ではマイノリティになっていく傾向があるように思う。マイノリティになればなるほど、人の話のネタに上がる機会も更に減るわけだから、社会的な利用価値も減少していくのではないだろうか。逆に、話のネタに使えさえすれば、コンテンツの質が低くても社会的な利用価値が上がる場合がある。勿論、コンテンツの質とその利用価値っていうのは分断されたものではなく、相互関係にもあると思うので、内容が伴うものは評価される可能性も高いと思う。その反面、内容が良くても話題性がないために埋もれているコンテンツも沢山ありそう。
ただ、こうやって考えていくと、作品を作る側としては、自分はどういうバランスで作品を作っていくのかを考えていかなければならないように思う。純粋に作品の質を高めていくのか、話題性などの付加価値を視野に入れて物を作っていくのか…。
作品を作るということは、きっとそれによって他者とコミットしたいという願いがあるのだろうけれど、それをどういう幅で、どういう質を維持しつつ、何のために、どういう人に見せて行きたいのか?っていうのは個々人違うんだろうな。



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